長く生きることは本当にいいことなのか?安楽死はありなのか?

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※人によっては観覧注意かも。

お疲れ様です。ナオトです。


前回は認知症のご年配の方と
関わったことについて書きました。
参考【認知症の人とコミュニケーションを取る方法。世界観を理解する

実は寝たきりの認知症の方とも
少しだけ関わったのですが、なかなか衝撃的でした。
今回はそのとき考えたことについて書いていこうと思います。


おもしろみにはかけるかもしれませんが、
将来、自分に近い人がそうなる可能性があるし、
そして、それは自分も例外ではないので、
とりあえず書きます。



個人の情報なので、あまり詳しいことはお話できませんが、
その方は90歳を超えていて、認知症で寝たきりでした。


僕が見たそこでの現実を少し挙げさせてもらうと

・血圧とか測ろうとすると、嫌がり叫ぶ
・その際に職員に暴言を吐く
・割とその声のボリュームがデカい
・たまにひっかき攻撃or噛みつき攻撃のオプションが付く
・食事は刻んで皿の上に置いて、手掴みで食べる


など、他には、寝たきりなので、
筋肉が極限まで落ち、ほぼ骨と皮だけみたいな風貌でした。
(骨盤の骨がくっきりと確認できる様はかなり衝撃的です。)


対応にはなかなか精神にきそうなものがありました。


前回の記事で、認知症について軽く調べた時に、
ちらっと目に入ってきたのが、
“介護疲れ”や”殺人事件”などの単語でした。



興味が湧いたので、該当する記事を読んでみたのですが、
やっぱり、介護を長年続けることにより、

精神的負担や経済的負担が限界に達して、
介護者の殺人事件があるみたいですね。


しかも、年に数件とかではなく、数十件というレベルで。


僕は、一時的に関わるだけだったので、
そこまで精神的負担ではなく、
どちらかというと興味関心のほうがあったのですが、



実際の介護現場を見て、これを1日2日ではなく、
何年、何十年となると、殺したくなるような気持ちが
沸いてくる可能性も否定できないなと感じました。



テレビとかでそういったニュースが流れると、
手のかかる介護を知らない方は


どんな理由があっても人を
殺してはいけないでしょ!


と軽く言ってのけると思いますが、


尿独特のアンモニア臭が立ち込める部屋の中で、
手足を抑えつけ、叫び声を聞きながら、
無理やりおむつ交換する現場を



目の当たりにしてみると、
簡単に同じことを言えなくなると思います。



普通の生活をしていると、関わることはないので、
イメージがしにくいと思いますが、


今こうしている間もどこかで、
過酷な介護を強いられている人が
存在していることは確かです。


それぐらい、イメージと現実ではギャップがあるものと
認識していいかもしれません。



で、僕がなんの話をしたいのかと言うと、


そこまでして生き永らえる必要はあるのか?


ということです。


現段階の日本では、“安楽死”というものは法的に
いまだに認められていませんが、
介護関係の殺人の記事を何個かみて、動機とか背景情報をみると、


やっぱり認めてもいいのではないかと
思ってしまいます。


長生きすることだけが本当にいいことなのか?
と考えてしまいます。



体が比較的元気な状態なら、いくとこまでいけばいいですが、
それこそ、寝たきりで、動くこともできず、認知症など
患ってしまうと、周囲にもかなりの負担がかかってしまいます。



運動もできず、体は衰える一方で、
どんどん物事が分からなくなる。しゃべれなくもなる。
そして、皮膚も衰えるので、ちょっとこすっただけで
内出血を起こすし、最悪、皮膚が剥がれちゃったりします。
(表皮剥離で検索するとめちゃくちゃ後悔します。)



そんな中で、生かされても、
ある種、生き地獄的な何かを感じてしまいます。



実際の現場で見た寝たきりの方の
顔はしわくちゃにゆがみ、どこか辛そうでした。


もうなんか、見えないムチで打たれて、
強制的に生かされているようにも見えました。



その光景を見ると、どうしても
ただ生きることだけが、素晴らしいことではない
思ってしまいます。


そこに存在して、二酸化炭素を吐いて
排泄物を製造するだけの毎日。
何がなんだかよくわからないけど、食べて、
時が過ぎるのを待つだけ。


自分が何者なのか、ここがどこなのか、
何もわからない。ただ定期的に食べ物がでてきて、
たまに痛いことをされる。(おむつ交換、着替え)


当人からしたら、余計なお世話も
いいところなのではないでしょうか。


自分の親だから~とかお金がないから~と言って、
施設を頼らず、仕方なく自分で介護を
している人もいるでしょう。


そんな人の貴重な人生を奪うことにもなります。
どんどん肉体的、精神的ストレスも溜まっていくことでしょう。


そして、限界がきて、一線を越えてしまう・・・
なんてことが起きてしまうぐらいなら、



本人、またはその家族に“終わり”を決める権利
あってもいいのかなと僕は考えます。



もちろん、体は元気なのに、
死にたいから死ぬっていう逃げ的発想には
頷けないですが、


人生を全うして、どんどん体も頭も弱ってきて、
健常者的生活ができなくなっているのなら、
自分で“終わり”の時期を決められるのは
悪いことではないと思います。



要するに、自分がこうなったら、
“一思いにやっちゃってくれ。”ってことですね。



そうすることで、自分の人間的尊厳も保たれますし、
介護することになる配偶者や子供にもあまり
負担をかけずに済みますしね。



実際、家族を何年も介護していて、
いざ死んだときに、湧き出た感情が
悲しみではなく、ホッとしたなんて話もよく聞きます。



なんかそれって悲しくないですか?
自分が死んでホッとされるって。。。


要するに

“やっと死んだ。良かった良かった。”

ってことですよね。


まぁそれだと葬式がある意味、
なんかスッキリ会みたいな感じで、
さっぱりした雰囲気になるかもしれませんが


どこか空しいですよね。



死ぬなら、死ぬで、悼まれたほうがいいし、
感謝されながら死にたいと思いませんか?



まぁ別に自分が死んだあとなんで、
どうでもいいと思いますが、
個人的にそっちのほうがいいと思います。



なので、家族から介護で恨みを買わない内に
自分で終わりを決めるのが理想的だなと感じます。


苦しみながら、できるだけ、長く生きるのではなく、
苦しむ前に、さくっと綺麗に終わらせる。


それもまた有りなのではないでしょうか。


今の日本然り、まだ先の日本でも
その安楽死制度は認められることはないでしょうが、
そんな日がきてもいいのではないかと思います。

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この記事を生み出してしまった人

ナオトノーマルキャンセラー
高卒で鹿児島から上京。東京の会社に就職するが通勤中、
毎日会社が爆発する妄想していたら、
いつの間にか辞めていた。(会社が爆発したわけじゃない)

普通を避けるように生きている為か、
普通とは少しズレている可能性のある男。
行動指針はよりおもしろい方へ。つまらないことが何よりも嫌い。

日本をもう少しだけおもしろくするために、
普通をぶち壊していける人を増やしたいと思っている。
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